「暴力の衰退」説とリベラル啓蒙主義

スティーヴン・ピンカーをケースとして


【報告者】伊藤隆太 /【司会者】橋本努

シノドス・トークラウンジ(2021年 3月30日 20時~21時半)

【テーマ】暴力の進化と戦争の起源

【報告者】伊藤隆太 /【司会者】橋本努

【申込】https://peatix.com/event/1839880 (開催済)

【要旨】

我々はこの世界から暴力を根絶し、平和に向かうことができるのでしょうか。世界的に有名なハーバード大学の心理学者スティーブン・ピンカー(Steven Arthur Pinker)は、先史時代から現代まで人類の歴史を再考しながら、神経生物学、進化学、脳科学等の最新知見を総動員し、暴力をめぐる人間本性を精緻に分析して、「暴力の衰退(decline of violence)」説という有力な学説を提示しました。

ピンカーによれば、歴史の長期的趨勢は多様な次元で暴力――戦争、殺人、ジェノサイド、内戦、テロリズム、動物虐待など――が衰退する方向に進んでおり、こうした進展は統計的データによりしっかりと裏付けられています。たとえば、我々はもはや奴隷制や魔女狩りを肯定することはなくなったし、ナショナリズムの衝突に起因する大国間戦争は滅多に起こり得なくなりました。こうした平和的変化は、中央集権政府が成立して国内のアナーキーが克服されたり、教育により人間がリベラル啓蒙主義を内面化したりすることで可能になってきたこれが提出されてから今に至るまで全世界を席捲している「暴力の衰退」説です。

「暴力の衰退」説は、マイケル・シャーマー(Michael Brant Shermer)、マッド・リドレー(Matt Ridley)、ジョシュア・グリーン(Joshua Greene)、ジョナサン・ハイト(Jonathan Haidt)といった進化学をベースとした科学者に支持されて、合理的楽観主義(rational optimism)やリベラル啓蒙主義といったムーブメントを生みだすことにも一躍を買いました。データにより世界をみれば、それが平和に向かっていることを明らかにした『ファクトフルネス』が世界的なベストセラーとなったことは、このムーブメントが社会で受容されてきたことを示唆しています。つまるところ、合理的楽観主義者は「気持ち」で社会の状況を論じているのではなく、冷徹なデータと科学的知見で世界の状況を分析した結果として、我々に楽観的になれるのだと主張しているのです。

これらに対して批判者は、ピンカーが人間本性を悲惨に見過ぎている、狩猟採集時代の戦争はそれほど悲惨ではなかった、ピンカーは人間の進歩を強調するあまり今起きている差別やヘイトを軽視しているといった、批判をピンカーらに浴びせます。この最たる例が、昨年7月、起きたピンカーの「学会除名騒動」でしょう。これはピンカーをアメリカ言語学会の 「アカデミック・フェロー」および「メディア・エキスパート」の立場から除名することを請願する公開書簡が発表された事件ですが、ここでは、ピンカーがこれまでに人種差別の問題を矮小化するような主張や差別に反対する人の声を抑圧するような主張を続けてきて、結果として人種差別の問題を継続させることに与している、と批判が展開されたのです。

それでは、なぜ世界が平和になっていると論じるピンカーらリベラル啓蒙主義者が、人種問題差別を矮小化しているという悪名を張られる必要があったのでしょうか。それは俗な言いかたをすれば、ポリティカル・コレクトネスを重くみる論者からすると、ピンカーは「アウト」な発言をくり返してきたということなのでしょう。ここに現代のリベラリズム内部の深刻な問題が内在しています。すなわちそれは、ピンカーら科学に基づくリベラル啓蒙主義者と、ポリティカル・コレクトネスを重くみる批判的リベラルの間の対立です。つまるところ、科学は我々がみたい現実をみるような規範的な道具ではなく、価値中立的なものであるため、二つのリベラリズムの間にはしばしば深刻な対立が生じるのです。たとえば、人種間や性差において能力差・性質の違いがあるという事実があれば、科学はそれを躊躇せずそれを論証しようとするというわけです。進化心理学の性淘汰理論などはその好例でしょう。

そこで今回、シノドス・トークラウンジでは、ピンカーの「暴力の衰退」説とその関連する学説をテーマとして番外編を開催することにしました。ピンカーの学説を受容した形で進化政治学を体系化したコンシリエンス学会学会長の伊藤隆太と、先日リベラリズムに関する記念碑的な著作『自由原理』を刊行した橋本努が対談をする形で、この重要なテーマを議論してまいります。

【報告者略歴】

伊藤隆太 (いとう・りゅうた)

慶應義塾大学法学部講師(非常勤)、博士(法学)。2009年、慶應義塾大学法学部政治学科卒業。同大学大学院法学研究科前期および後期博士課程修了。同大学大学院研究員および助教、日本国際問題研究所研究員を経て今に至る。海上自衛隊幹部学校で非常勤講師も務める。専門は、国際政治学、国際関係理論、政治心理学、安全保障論、インド太平洋の国際関係、外交史と多岐にわたる。

研究会レポートはこちら

「暴力の衰退」説とリベラル啓蒙主義--スティーヴン・ピンカーをケースとして_3月30日_研究会報告.docx (4).pdf